約 44,806 件
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/37.html
概説 想像可能性論法 2つの哲学的ゾンビ 意識の定義――機能的意識と現象的意識 ゾンビ論法的思考実験の歴史 物理主義からの批判 補足 概説 哲学的ゾンビ(英:Philosophical Zombie) とは、デイヴィッド・チャーマーズによって提起された心の哲学における思考実験である。外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間と定義される。ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、哲学的ゾンビ(または現象ゾンビ)と呼ばれる。おもに性質二元論(または中立一元論)の立場から物理主義とその範疇にある行動主義や機能主義の立場を批判する際に用いられる。 哲学的ゾンビは、フランク・ジャクソンによるマリーの部屋の思考実験の発展型である。チャーマーズ自身も、マリーの部屋の「知識論証」は「ゾンビ論証」とペアになったときに最も力を発揮すると主張している。一般にマリーの部屋と哲学的ゾンビはセットにされて批評されることが多い。 ※哲学的ゾンビに対する主要な応答はマリーの部屋に対する三種類の応答を参照のこと。 想像可能性論法 ゾンビの概念を用いて物理主義を批判するこのような論証のことを「ゾンビ論法(Zombie Argument)」、または「想像可能性論法(Conceivability Argument)」と呼ぶ。逆転クオリアの思考実験も同様の論法である。チャーマーズはこの論法によって意識のハードプロブレムの物理主義的な解決は不可能であると主張した。 想像可能性論法からは世界そのものの在り方に関する可能性――形而上学的可能性(meta-physical possibilitiy)が帰結すると考えられている。たとえば丸くかつ四角いボールは想像不可能なだけでなく、いかなる世界でもありえない。しかし赤いボールが青いという状況は想像可能である。つまり想像可能性は形而上学的可能性を帰結するとは、世界のあり方としてどのようなあり方が可能であり、どのようなあり方は不可能なのかをわれわれが知りうるとすれば、さまざまな状況の想像可能性を通じてであるほかは無いからである。 もしゾンビが想像可能であるとすれば、ゾンビは形而上学的にも可能である。すなわち心的状態を有しているのと全く同じ物理的状態にありながら、心的状態を欠くものが存在しうることになる。その可能性が認められるなら、物理的状態を記述するだけでは心的状態の説明ができず、従って物理主義は間違っているということになる。 チャーマーズは付随性の概念を「論理的付随性」と「自然的付随性」の二つに分け、意識体験は物理特性に自然的に付随しているが、論理的に付随しているわけではないということを哲学的ゾンビの思考実験で証明しようと試みる。意識体験を全く欠いた世界――哲学的ゾンビだけがいる可能世界のことを、ゾンビワールドという。ゾンビワールドが論理的に可能であれば、意識体験の事実とは物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。それはゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には備わっているクオリアという事実である。それは物理的事実には含まれておらず、また物理的事実だけからは出てこない、という点を強調し、ゆえに唯物論(物理主義)は間違っていると結論する。 2つの哲学的ゾンビ 哲学的ゾンビには次の2種類がある。 1、行動的ゾンビ(Behavioral Zombie) 外面の行動だけは普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。例えばSF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば行動的ゾンビに当たる。 2、神経的ゾンビ(Neurological Zombie)脳の神経細胞の状態まで含む全ての観測可能な物理的状態が普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。通常、哲学的ゾンビと言う場合こちらのことを指す。現象的意識が欠如しているという意味で「現象ゾンビ」ともいう。 哲学的ゾンビはその定義から、普通の人間と全く区別がつかないとされる。特に神経的ゾンビの場合には頭を解剖しても普通の人間と区別できない。哲学的ゾンビは外から見る限りでは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビには行動に伴う感覚が全くなく、クオリアという内面的経験を全く持たないということである。 哲学的ゾンビが実際にいると信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず、思考実験によりクオリアの存在を浮き彫りにすることが目的である。また「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」という問題も心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。 意識の定義――機能的意識と現象的意識 ゾンビ問題を理解するためには、「意識」という言葉がいくつもの意味で使われる多義語であることに注意する必要がある。 チャーマーズは意識の概念を二種類に分けた。 1、機能的意識(心理学的意識) 機能的意識(心理学的意識)とは、『人間が外部の状況に対して反応する能力』のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識である。これは外面的に観測することができる客観的な特性である。 チャーマーズは機能的意識に関する問題を、意識のイージープロブレムと考える。心理学的意識とも呼ばれるのは、心理学ではクオリアは問題の対象となっていないからである。 2、現象的意識 現象的意識とは、『主観的で個人的な体験』のことである。外部からは観測できない主観的な特性――意識体験、現象、クオリアを有した意識である。機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。 チャーマーズは現象的意識の問題を、意識のハードプロブレムと定義して、心の哲学が探求すべき核心的な問題だと考えた。 以上の二種類の言葉を用いて哲学的ゾンビをより厳密に再定義すると、「哲学的ゾンビとは、意識の機能的な側面に関しては普通の人間と全く同じだが、一切の現象的意識を欠いた存在のこと」となる。 ゾンビ論法的思考実験の歴史 ゾンビ論法と類似したタイプの議論、つまり「意識体験」と「物質の形や動き」との間に論理的なつながりが見出せない、というタイプの議論は、歴史上様々な形で論じられている。歴史を下るにつれて議論は洗練されていく。 1、ライプニッツによる風車小屋の思考実験 思考できる機械があるとして、その機械を風車ほどまで大きくしたとする。このとき、そのなかに入って周りを見渡したら、いったい何が見えるだろう。17世紀、ライプニッツは著書『モナドロジー』の中で、以下のような思考実験を行っている。 ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るように、その中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かし合っている姿だけで、表象について説明するに足りるものは決して発見できはしない。 この風車の議論から、ライプニッツは、モナド――ライプニッツが存在すると仮定したこの世界の基本的構成要素の、内的な性質として表象を位置づけていく。 2、ラッセルによる世界の因果骨格の議論 20世紀前半、哲学者バートランド・ラッセルが『物質の分析(Analysis of Matter)』(1927年)を中心に様々な著作の中で展開した議論の中にも、同種の議論が見られる。ラッセルは物理学はどのようなものか、ということの分析を行う中で、物理学は対象と対象の間にどのような関係があるかを扱うが、そうした関係をもつ当の対象の内在的性質が扱えないとして、物理学が行う世界の記述を外形的なもの、「世界の因果骨格(Causal Skelton of the World)」を扱ったものだとした。 物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知っているためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである。私達が発見しうるのは世界の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間な構造のある抽象的な特徴と関わってのみ知られうる。そうした特長は心の世界に関して、その内在的な特徴に関して何か違いがあるのか、またはないのかを示すのに十分ではない。私達が直接に経験する心的事象である場合を除いて、物理的な事象の内在的な性質について、私達は何も知らない。 3、クリプキによる世界創造の議論 20世紀中盤、哲学者ソール・クリプキが行った、神様の世界創造を喩えに用いた論証がある。この論証はクリプキの講義録『名指しと必然性』の最終章に収録されているもので、これはしばしば様相論法(modal argument)と呼ばれる。以下のようなものである。 神様が世界を作ったとする。神様は、この世界にどういう種類の粒子が存在し、かつそれらが互いにどう相互作用するか、そうした事をすべて定め終わったとする。さて、これで神様の仕事は終わりだろうか? いや、そうではない。神様にはまだやるべき仕事が残されている。神様はある状態にある感覚が伴うよう定める仕事をしなければならない。 物理主義からの批判 物理主義の立場から寄せられるゾンビ論法への批判は、現時点の私たちにゾンビは一見論理的に可能(logicaly possible)に思えることは認めつつ――これはしばしばゾンビ直感(zombie hunch)と呼ばれる――そうした直感は主に現在の私たちの神経系への無知に起因する、という形で行われる。つまり神経系への理解がまだ中途半端な段階にあるから現象体験を完全に欠いた人間の機能的同型物などというものを想像できるのであり、もし神経科学の知識が深まっていけばそうした存在は論理的に不可能であると理解できるだろう、と。これはア・ポステリオリな必然性からの議論と呼ばれる。 またレヴァインは、想像可能性とはきわめて空疎な概念なので形而上学的可能性を帰結しないと反論している。 補足 もし現象的意識をもたないゾンビが人と同じ行動をとれるなら、現象的意識は何の役割も果たしていないことになる。ゾンビ論法は随伴現象説を含意しているとの指摘がある。ただしチャーマーズは物理主義を批判する手段としてゾンビ論法を用いたのであり、われわれの「この世界」においては現象的意識の付随性は必然的であると考え、心身関係論においては中立一元論の立場である。 参考文献 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』 勁草書房 2004年 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93
https://w.atwiki.jp/futabaphilosophy/pages/13.html
哲学入門について書いていきます。 デカルトは、哲学全体を一本の樹木として例えた。 「その根は形而上学であり、その幹は自然学。そこから出ている枝は諸学問であり特に医学と工学(機械的技術)。そしてその果実は道徳であると」(『哲学原理』参照) ホッブスは、「哲学」というときほぼ「学問」という意味でも用いており、哲学を「既知の原因あるいは知りたいという思い・エロス[産出力]により、正しい推論を通じで獲得される結果あるいは現象の知識。または、既知の結果から正しい推論を通じて獲得される知識」と、いったりしている。(『物体論』参照) ヒュームは、「哲学的探求に用いて成功を希望できる唯一の方策は、諸学の首都たる人間本性そのものに端的に進軍することである」といっている。(『人性論』参照) カントは、「すべての理性の学のうちで学習されうるのは数学だけであって、哲学(それが歴史的なものでないかぎり)はけっして学習されず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されるにすぎあない」といっている。(『純粋理性批判』超越論的方法論第三篇 参照) ヘーゲル死後 フォイエルバッハは、「新しい哲学は人間を、人間の土台としての自然学をふくめて、哲学の唯一、普遍、最高の対象とする」としい人間学を押し出す(『将来の哲学の根本問題』参照) マルクスは今までの哲学を、ただいろいろに解釈しただけの思弁哲学であるといっている。 「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきただけだ・・・」(『ドイツ・イデオロギー』フォイエルバッハに関するテーゼ参照) ニーチェ、ハイデガーは、科学と敵対的に展開し、「将来の哲学者は芸術的文化の高等法院にならねばならぬ」とか、「存在を捉えるには詩人的思惟、回想的思惟によらねらばらぬ」とかいっている。(『断片』『形而上学とは何か』参照) ラッセルは、このような過程から「神学と科学との間には、この両方から攻撃にさらされている境界地(no man’s land)がある。この境界地が哲学である」といっている。(『西洋哲学史』参照) 田中美知太郎は、「ラッセルの哲学史は、間接的な哲学否定の歴史にすぎず・・・哲学が否定的に取扱われることになってしまったのである。・・・ラッセルのいう「大きな力を及ぼす」哲学の積極的内容は、これを神学と科学との間の「no man’s land」とするだけの規定で、果たして十分に把握できるものかどうか大いに疑問であると言わねばならない。とにかく哲学の歴史は、単に神学を悪玉とし、科学を善玉とするような、単純至極の闘争劇のうちに収拾されてしまうものではないことは、ラッセル哲学史の一面性が、なによりもはっきりとこれを示している」(『哲学への案内』参照) 田中美知太郎は、「哲学において、私たちが直接に知ることのできるのは、歴史のうちに与えられている哲学でありますが、しかしこのことは、歴史のうちに与えられている哲学が、哲学のすべてであるということを意味するものではありません。歴史のうちに解消し、歴史を絶対者とする考え方は、実際には、その歴史を更に絶対化された今日という日、もしくは絶対化された明日という日に解消しようとするものであって、それはかえって歴史を否定し、哲学を否定する結果になることは既に申したとおりです。歴史の意味は、歴史だけでは解けません。哲学史に意味を与えるものは、哲学史のうちに解消されてしまうことのない、哲学そのもの、あるいは永遠の哲学と呼ばれたものでなければなりません。」(『哲学のために』参照) フィヒテは、「どういう哲学をひとが選ぶかは、そのひとがどういう人間であるかにかかっている。・・・哲学体系は死んだ家具のようなものではなく、それをも一つの魂によって生かされている」といっているのを思い出しました。(『知識学への第一序論』参照) リチャード・ローティは、「すこし大雑把だが、私は哲学者というものを、根本的に公的な目的を達成するような仕事をするミルやデューイやロールズのような哲学者と、根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者に分けている」といったりしている。(『脱構築とプラグマティズム』参照) 「哲学は科学であるよりも、むしろ技術である。あるいは技術の技術であるといった方が、もっと適切かもしれない。今日の技術の概念は、きわめて狭小であって、工業生産の工程などに局限されて考えられる傾向が多いけれども、これはもっとひろく使用や処理、獲得や管理、教育などについても考えられなければならない。そしてわれわれは技術の手段的な面に注意をうばわれて、目的は何であっても、それのために最も効率のいい手段を考えるのが技術であるという風に見たりするけれども、単なる科学的知識から技術を区別するのは、実にこの「目的」の明確さにあるということを忘れてはならない。技術の代表的産物であるとも見られる機械は、いつも一定の目的を果たすために、あらゆる無駄を省き効率的に作られているのであって、漫然と何の目的もなしに部品が集められ、これに運動が与えられたとしても、それは機械とは呼ばれないのである。しかしわれわれは目的のこの自明性のために、かえってそれが盲点となって「機械的」という言葉を、無目的ということの代名詞に使ったりするのである。しかし今われわれは、目的の一義的な支配をもって、技術の決定的な特質と見なければならない。そしてこのような目的は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のはじめに示しているように、上下の関連を通じて目的の体系に組織されるものなのであって、それはギリシャ語で考えれば、善の支配ということであり、今日の言葉で言えば、価値の世界が構成されるということであろう。哲学において求められている全体性は、抽象的な普遍でもなければ、単なる自然でもなく、むしろわれわれ自身の喜びともなれば、また悲しみともなるような、価値を帯びた全存在なのであって、われわれが世界とか、人生とかいう言葉で指向しているのが、それであるとも考えられる」(『哲学への案内』参照) ちょっと古い哲学感かもしれません。 現代は分析哲学が主流になってますね。 分析哲学参照
https://w.atwiki.jp/philosopher/pages/23.html
分析哲学には二つの特徴がある、一つは厳密な論理を使用する(分析する)ことと、もう一つは経験的事実に基づく実証主義の傾向である。 これらの特徴を備えた20世紀初頭の論理実証主義が分析哲学の始まりとされる。 実証主義的傾向は論理実証主義以前に、エルンスト・マッハによって、学問の役割を経験的な事実を法則によって整備することにあるという 「思惟経済」の考え方によって提起されていた。 哲学においても、形而上学的な独断を排し、経験に基づいた事実を論理的に厳密な思考によって分析することによって哲学の科学化を目指そう とする動きが1922年、モーリッツ・シュリックを中心としたウィーン学団によって展開され、論理実証主義と呼ばれるようになった。 こうした実証主義とは無関係に、19世紀に数学の論理学を用いて基礎づける「論理主義」を展開したゴットロープ・フレーゲによる現代論 理学が誕生していた。フレーゲは命題論理(真もしくは偽の真理値を持つ命題を結合子によって組み合わせたものについての真理値を計算する 方法)と述語論理(∀や∃といった量化子を用いて量を表す表現を導入したもの)を導入した。 現代論理学はバートランド・ラッセルによって更に発展させられ、かつ経験論と合流した。 ラッセルの弟子であるルトヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において世界を命題論理で明晰に記述できるものとし、形而上学 については命題として明晰に語れない以上、語りうるものを明晰に表現してその存在を示唆する以外に方法はないことを示し、哲学の世界に 「言語論的転回」をもたらした。 論理実証主義は「哲学の科学化」するための方法論を『論理哲学論考』の影響による「語りうるもの」すなわち事実についての明晰な言語化 に定めた。そこでは形而上学的命題を疑似命題として退ける一方で経験に基づく科学のような綜合命題が有意味な命題であるとされ、綜合命題 は体験的な所与に還元されるという還元主義を唱えた。 しかし、経験への還元を徹底した場合、最終的に何に還元されるのかという問題(プロトコル命題についての論争)を通じて論理実証主義は行き 詰まりをみせ、最終的にナチスによる弾圧により主要メンバーがアメリカに渡ることで論理実証主義運動は消滅した。 論理実証主義の方法論自体もウィラート・ヴァン・オーマン・クワインの「経験主義の二つのドグマ」において全面的に批判された。クワイン は還元主義のような基礎づけを否定し、自然科学と哲学を同列におき、科学を積極的に用いて哲学を議論する「哲学の自然化」プログラムを提唱 した。 今日、経験科学や論理と結託した形で、明晰な議論を心がけるという特徴を残しつつ、分析哲学は様々な領域へと浸透している。そこでは形而 上学や倫理学のような論理実証主義が排除した主題も扱われている。
https://w.atwiki.jp/oyasaidaisuki/pages/35.html
※工事中 年 号 表紙 内容 管理人 2004 42 THE YELLOW MONKEY 「ユグドラシル」インタビュー(藤原) ○ 2005 45 山口隆&峯田和伸 「プラネタリウム」インタビュー(藤原) × 2008 55 藤原基央 ○ 2010 63 藤原基央 ○ 2011 66 藤原基央 ○ 2011 69 藤原基央 「ゼロ」インタビュー(藤原) ○ 2012 71 吉井和哉&Taka GOLD GLIDER TOUR初日幕張レポ18P ○ 2012 73 BUMP OF CHICKEN バンドの過去と今について、「firefly」インタビュー ○ 2013 75 藤原基央 ベストアルバム全曲インタビュー(藤原) ○
https://w.atwiki.jp/philosopher/pages/13.html
このシリーズは放送大学の講義「現代哲学への挑戦」のレポート課題をまとめるためのメモとして書く。 本書は哲学が終焉へと向かいつつある今日において、現代哲学が戦ってきた現代の非哲学への考察とともに、現代哲学のどこに限界があったのか、それを克服し生き残る道はないのかを探っていくという野心的な試みがなされている。 このメモ書きでは各章のポイントとなる問題をピックアップしつつ著者の思考の軌跡を追っていきたい。 哲学の黄昏 現代という概念 歴史の終焉 ポストモダニズム 哲学と政治のキアスム 現代哲学の条件 現代哲学者たち 実存主義 フッサール現象学とベルクソニスム
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/28.html
概説 心の哲学の用語 自然主義 根本問題 概説 心の哲学(英 Philosophy of mind)とは哲学の一分科で、現象的意識やクオリアなど心的なものと、物質的な脳や身体との関係、そしてそれらの存在論的な位置づけを研究する学問である。 心の哲学の基本的なテーマは心身問題と心的因果であるが、心身問題は科学の領域では心脳問題として研究の対象となっている。歴史的には心身問題は心脳問題の前史としてあったということになる。 デイヴィッド・チャーマーズは、心的現象と脳の活動の対応関係を研究する神経科学の問題を「イージー・プロブレム」と呼び、その脳の活動からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題を「ハード・プロブレム」と呼んでいる。近年の心の哲学ではその意識のハード・プロブレムが最も活発に議論されている。 心の哲学についての立場を大別すると一元論と二元論に分けられる。またクオリアを物理的な性質に還元可能か否かを巡って、還元可能とする物理主義的立場と、還元不可能とする立場(実体二元論、性質二元論、中立一元論)に大別されることもある。 心の哲学の主要な説を分類すると以下のようになる。 ■二元論 ├実体二元論 | ├相互作用二元論 | ├予定調和説 | └機会原因論 ├性質二元論 | ├心身並行説 | ├自然主義的二元論 | └トロープ説 ├随伴現象説 └新神秘主義 └認知的閉鎖 ■一元論 ├物理主義 | ├行動主義 | ├心脳同一説 | ├機能主義 | ├表象主義 | ├非法則一元論 | └消去主義的唯物論 ├観念論 |└唯心論 ├現象主義 | └重ね描き ├中立一元論 └汎神論・汎心論 一元論対二元論の概念図(英Wikipediaより引用) 図の Cartesian Duality はデカルトの実体二元論を意味する。Physicalism は物理主義的一元論(物的一元論とも呼ばれる)、Idealism は観念論的一元論(心的一元論とも呼ばれる)、Neutral Monism は中立一元論の意味である。なお現代では「二元論」という場合、デカルトの二元論でなく性質二元論を意味することが多く、これは中立一元論とほぼ同じ立場である。現代の心の哲学では、物理主義VS中立一元論(性質二元論)という構図で論争が行われていると考えても間違いではない。 現代では心的一元論の立場を取る哲学者はほとんどいない。 ※なお上の図は一元論対二元論という構図で分類されているが、心の哲学にはさまざまな議論領域があり、どの問題に着目するかで異なった分類の仕方もありうる。心の哲学者の金杉武司は各議論領域を以下のように分類して紹介している。 http //www.keisoshobo.co.jp/files/bookguide/philosophyofmindmap.pdf 心の哲学の用語 心の哲学においては用語が多少混乱しているので注意が必要である。現在最も活発に議論されているのはクオリアの問題であるが、歴史的にはクオリアと同様の意味で「表象」という言葉がよく使われてきた。「知覚」や「感覚与件(センスデータ)」や「直接経験」も類似の意味であり、心の哲学においてそれらは厳密に区別されている訳ではなく、しばしば互換的に用いられている。なおジョン・サールや茂木健一郎は、クオリアを「意識」そのものと同一視し、意識と同じ意味で用いている。クオリアという用語は論者によって用いられ方が異なるので注意が必要である。 「現象的意識」という言葉は、客観的に観察可能な意識の機能的側面と対比させて、意識の主観的、私秘的な側面を指す場合に用いられる。 「唯物論」と「物理主義」はほぼ同じ立場の思想を指す。「性質二元論」と「特性二元論」は同じ意味である。 クオリアを物理現象に還元できるという立場の「還元主義」と、自己や自我というものは個別の意識現象に還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」は全く意味が異なるので注意が必要である。 心的性質と物理的性質は一つの実体の両面であると考える立場の「中立一元論」は、「二面説」や「二相理論」、時に「同一本体相貌説」とも呼ばれるが、ほとんど同じ意味である。なお「性質二元論」とは、世界には物理的性質と心的性質の二つがあるという立場であるが、その二つはあくまで「実体」ではなく「性質」としているのであり、存在論的には中立一元論を前提としており、同じ二元論であっても「実体二元論」とは全く異なるので注意が必要である。 自然主義 心の哲学には様々な立場の学者がいるものの、どの学者も心を科学的に扱おうとする「自然主義(naturalism)」を前提にしている点ではほぼ共通している。心を自然科学の対象にしようとする学者たちの会議がツーソン会議や国際意識科学会である。 自然主義は実用的実在論を前提にしているため、心の哲学では認識に関する「基礎付け主義(foundationalism)」はほぼ否定されている。従って現代の心の哲学の議論では現象主義や観念論はほとんど対象にならず、心身問題の歴史について解説する脈絡で、ルネ・デカルトやジョージ・バークリーの説が紹介される程度である。ただし日本の哲学者には、大森荘蔵の現象主義的な「重ね描き」という心身関係論に言及する者が少なくない。 心の哲学は自然主義を前提としているため、認知科学や神経科学と親和的である。ツーソン会議や国際意識科学会には哲学者だけではなく、神経科学者や認知科学者も多数参加している。 心の科学的研究は19世紀に心理学として始まっている。初期の心理学は行動主義を前提として、観察可能な人の言動に研究対象が限定されていた。しかし行動主義は多くの難点が指摘され、機能主義が主流となった。機能主義を前提とした心の科学が認知科学である。認知科学では「表象(Representation)」と「計算(Computation)」の概念を核とし、人の心とは表象の計算的な処理と考える。これは表象主義とも呼ばれる。 なお神経科学者や物理学者には、現象的意識やクオリアは科学の対象にできないとする立場の者も少なくない。科学とは数量化できる事物だけが研究可能であるという前提から、「懐かしい」とか「美しい」といった数量化できないクオリアは科学の対象にならない、ということである。 根本問題 (以下は管理者の見解) 心の哲学には、本来「哲学」そのものの歴史的課題でもある二つの重要な根本的問題が潜在しており、それらの問題に対してどのような立場を取るかによって、心身問題へのアプローチは全く異なってくる。 ひとつは実在についての問題であり、この問題に対しては実在論と非実在論の立場に分かれる。現代の心の哲学において最も活発に議論されているのはクオリアの存在論的な位置づけと心的因果の問題であるが、それらは自然主義の立場から、実用的実在論を前提に行われているものである。しかし現象主義や観念論などのように実在論に反対する立場もある。なお非実在論の中には、時間や空間の実在性を懐疑するラディカルな立場もある(時間と空間の哲学)。物質や時間・空間が実在しないという立場からすると、現在心の哲学で議論されている問題の多くは錯覚問題であるということになる。 もうひとつは自己や自我についての問題である。デレク・パーフィットはこの問題に対する立場を、人格の同一性についての還元主義と、非還元主義に分ける。還元主義の立場では自己は実体ではなく、そのつど生起し消滅するクオリアなど個別的現象に過ぎないとするが、非還元主義では魂のような絶対的な主体を想定し、それが通時的に「私」の同一性を成り立たせている根拠とする。 ちなみに一般の人が抱いている素朴な世界観は、素朴実在論、および素朴心理学と呼ばれる。この素朴な立場では「私」という主体がいて、それが空間的に広がる世界に実在しているさまざまな物事――客体を時間的、つまり持続的に認識していると考える。 イマヌエル・カントは、人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないと論じた。したがって物質的なものの実在を否定し、さらに時間や空間の実在も否定し、なおかつ「私」という主体の存在も否定する極端な立場の思想では、世界の在り方を具体的に理解し、イメージすることは困難になる。
https://w.atwiki.jp/linguisticphilosophy/pages/16.html
[言語の問題] 言語とは非常に不思議な性質を持つものです。 実体が見えないにも限らず現に情報を伝達し、例えば小説などでは見たことのない風景を想像の中に作り上げてくれます。 この不思議な性質について哲学的に思惟する営みを言語の哲学といいます。 言語の哲学、言語哲学には歴史上、様々な哲学者が携わってきました。 その中にはアリストテレス、ライプニッツ、ハイデッガーなど著名な哲学者も多くいます。 それほどに言語は哲学において重要な問題だったのです。 さて、なぜ言語は哲学上で重要な問題となるのでしょうか? 一つの思考実験として、言語のない世界を考えてみましょう。 風景や人の顔などの画像的、映像的な情報、あるいは何かの音などが思い浮かべることができると思います。 しかしそれを説明するためには必ず言語が必要になります。 説明の説という字にも言偏が使われている通り、我々は言語を介さずには意思疎通を図れません。 「いやいや、non-verbal(非言語的)なコミニケーションや以心伝心のような非言語的な意思疎通もあるだろう」 と意義を唱える人もいるかもしれません。 しかし、非言語的な意思疎通には必ずそれ以前に言語的な意思疎通が存在したはずです。 特定の人物を指す名称なしに、どのように人を区別するのでしょう? また、例えば机と椅子などの区別は初めからそれらが分けられているのではなく、異なる名称がついているという背景を他者から与えられるか、自分自身で言語(記号体系)という背景の中から差異を見出し、初めて区別ができるようになるのです。 つまり、その記号体系という言語についてその全貌を把握し、その基礎を確立せずには、あらゆる問題は根本的な解決ができないのです。 [古代ギリシアに見出す言語哲学] 歴史上の哲学者がどのように言語に取り組んできたのかについて遡ってみましょう。 まず、西洋諸学問の基礎として紀元前古代ギリシアの哲学思想があります。 かの有名なソクラテス、ソクラテスの弟子のプラトン、プラトンの弟子のアリストテレスが有名です。 プラトンの有名な学説として、イデア論と想起説があります。 例えば幾何学において図形を描いて証明を行う場合、現実の図形では点は面積をもち線は幅をもっていますが、 こうした現実の図形によって幾何学者が証明しようとしているのは、頭の中にある幅のない線で書かれた純粋な二次元上の図形です。 現実の図形では虫眼鏡などで見れば必ず幅がありますが、純粋な頭の中の数学的な空間では幅を持たないとすることができるわけです。 この様に、想像の中の抽象的な概念(イデア)は現実の純粋ではない存在とは異なるというのがイデア論、抽象的な概念を現実の仮の姿から想起するというのが想起説です。 [普遍論争] それから長い年月が経ち、中世の西洋では普遍論争という論争が盛んでした。 この論争では実在論(realism)と唯名論(nominalism)という立場の哲学者や神学者が主に対立し、議論を交わしていました。 普遍論争における実在論はキリスト教の神話と紀元前ギリシアのイデア論が組み合わさったものです。 楽園にいたアダムとイヴは原罪を背負い楽園を追放され、その子孫である人類はその罪を背負うこととなりますが、 実在論は人類という抽象概念をイデア、現実の仮の姿を我々やアダムとします。 一方、唯名論は人類という抽象概念は実在物というよりかは単なる名称に過ぎす、実在するのはむしろその人類という名称にくくり付けられる我々の様な個々の存在であると考えます。それゆえに唯、名前がある論説という唯名論なのです。 さて、この普遍論争の出来事が西洋諸国には中世の記憶として根付いていました。 近世、近代、現代と爆発的な勢いで学問が発展することになりますが、 この問題はそこで活躍した様々な学者に精神的に引き継がれていったと言えます。 [比較言語学] ここからは西洋における言語の哲学の関心が神学から言語学の系譜へと写ります。 古典的な言語学といえば西洋において公用語や学術言語として機能していたラテン語の規範文法というものがありました。 この時点では素朴に言語学と言われたら思いつくような、”個別の言語の正しい文法について記述する”ような研究がなされていたので、まだ哲学とは関係がありません。 しかし、西洋諸学問の発展に伴い、18世紀には文献学という学問の中で比較言語学という手法が確立されて行きます。 そうして絶対的に正しいラテン語の文法という観点から、相対的な異なる言語間の比較や異なる文法などを記述するという観点に言語学の関心が映る事となりました。 ところで言語というものは、世代を超えて長い年月をかけていけば必ず変化するものです。 言語の起源というのも言語の哲学では盛んな議論でありいまだに解決されていませんが、言語が変化するというのは言語学的には確実な事実です。 例えば、日本の古典と現代日本語、古英語と現代英語、漢文と中国語などでは文法も発音も語彙も全く異なります。 これは、例えば「チョーヤバイウケるヮラ」だとか、”ら抜き言葉”だとかのような新しい言葉遣いが過去に言語使用者全体に取捨選択され、変化した結果と言えます。 実際、戦前の人に携帯だとかパソコンという単語を使ってもそれらが時代に沿って新しい概念に対応して造語された単語である以上、意思疎通ができないわけです。 この様に言語というのはいわば生物の進化の様に環境に適応して柔軟に変化します。 その変化の法則などをわかる範囲でまとめた学問が比較言語学だったわけです。 [近代言語学] 比較言語学が発展してきた19世紀、さらに近代言語学はソシュールという一人の学者によって飛躍的発展を遂げることとなります。 ソシュールはここで一つの哲学的とも言える提起を始め、その後の西洋哲学全体にも影響を与えます。 まず、彼が提起したのはこれまでの歴史上の動的な変化に対応して言語を記録していく(通時)言語学ではなく、 言語一般についての普遍性と構造を言及する(共時)言語学の必要性でした。 彼は普遍的な言語の性質として様々な概念を提案しましたが、その中でも重要な概念としてシニフィアンとシニフィエという概念があります。 例えば犬という語彙があるとして、そこには犬という語彙から想起されたり指示されるイメージと、inuというそのイメージとなんの関係も持たない音声があります。 人間の全ての言語はこの様になんの関係も持たない音声(シニフィアン)と意味(シニフィエ)をくくり付ける性質を持つわけです。 連続的なシニフィエのシニフィアンによる区切り方は言語によって異なるので、そこから言語によって認識の仕方が異なるという言語相対説や言語によって認識の仕方がある程度決定されるという言語決定論という仮説も生まれました。 近代言語学の人間の言語一般に対して言える法則の発見は西洋のあらゆる学問に対して非常に示唆に富むものでした。 音韻論的(イーミック)と音声学的(エティック)という対立も重要です(同化と異化とも言います) これは音素と音韻だとか若干専門的な話になるので別のページに分割しますが、 この場で至極簡単に言えば、 我々は恣意的な判断に基づいて同じであるだとか異なるだとかを判断しているということであり、言語を使うものは誰一人としてその恣意性から逃れることができないということです。 [現代思想] ソシュールの言語においての発見の数々は、 それまで記号とそれにくくり付けられていた意味との解離を意味しました。 普遍論争の例で言えば、実在論者はこの恣意的な記号と意味との対応を説明しなければなりません。 また、論理的思考と言われるものについても、論理的に証明された述語や形式体系と現実との対応付け(写像)をさせる場合には恣意性があるのではないかという批判を免れなくなったわけです。 これにより”証明的”な諸学問や哲学はソシュールの構造言語学に則り、その”構造”を探求する体制へと移行していくこととなります。 それが現代思想における構造主義でした。 構造主義の哲学者において有名なのは例えば精神分析家医のラカンがいます。 ラカンはフロイトを継承し、ヘーゲルやソシュールの理論とを組み合わせ、独自の理論を言語哲学的に編み出して行きました。 ラカンは無意識は言語のように構造化されていると提唱し、厳密な論理によっては近くことのできない深層意識に、比喩的な変域を持った代数構造を用いることで近づこうと試み、部分的な成功をおさめます(彼は理論の難解さから、文脈や歴史的背景の理解を持たない人々からの批判をよくされます) 言語哲学は英米では分析哲学とも言われ発展していますが、多くの分析哲学の理論はこの構造言語学的な文脈を正確に継承しているとは言えません。 また構造を把握することはどこまでが可能なのかというポスト構造主義などの批判的継承もあり、ますます言語全体の構造を把握するという試みは難しくなってきています。
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/149.html
管理者の連絡先 Contact address Twitter 日本語 Twitter English English papers Structural realism and eternalism can solve the mind-brain problem Kant's Antinomy proves Eternalism and Structural Realism true ↓以下は日本語書籍と論文 Below is a collection of Japanese books and papers 『形而上学のエッセンス』 google books(Google playで購入後Google booksに戻ればpdfがダウンロードできます) Amazon (kindle版は文字検索できません) 『存在と時間と〈私〉』 google books(pdfがダウンロードできます) Amazon (kindle版は文字検索できません) ※kindle版は文字検索できないのでgoogleのpdf版をお勧めします。 『反実在論の極限』(未熟な部分があるので販売停止にしました) 以下は個別の問題についての論考 亀でもわかるアンチノミー 猫でもわかるデカルト哲学 映画『シックスデイ』で考える〈自己〉の問題 ゾンビでもわかる心脳問題 静的宇宙論の確実性 カラシニコフの哲学 心脳問題の解消 時間の哲学の未解決問題 〈私〉の持続という問題 映画『マトリックス』で考える現実と真実 存在と時間と「私」 無内包の現実性 書評1 書評2
https://w.atwiki.jp/gentoo64/pages/116.html
古代ギリシア哲学 ◆ギリシア哲学の先駆者の時代 ホメロス(前8世紀) 詩人 ヘシオドス(前700頃) 詩人 アルクマン(前630頃) 詩人 レロスのペレキュデス(前6世紀) 神話学者 ◆初期ギリシア哲学(ソクラテス以前) 【時期】前6世紀初め(前585年、タレスの日蝕予測)~前5世紀後半(ピュタゴラス派や原子論者の活動は前4世紀前半まで) 【場所】イオニア、イタリア タレス(前625頃~前548頃) ミレトス派(イオニア派) アナクシマンドロス(前610頃~前546頃) ミレトス派(イオニア派) アナクシメネス(前587頃~前527頃) ミレトス派(イオニア派) ピュタゴラス(前572頃~前494頃) ピュタゴラス派(イタリア派) クセノファネス(前570頃~前470頃) エレア派(イタリア派) シュロスのペレキュデス(前6世紀) ヘラクレイトス(前540頃~前480頃) イオニア派 パルメニデス(前520頃~前450頃) エレア派(イタリア派) アルクマイオン(前6世紀末~前5世紀) ピュタゴラス派(イタリア派) アナクサゴラス(前500頃~前428頃) イオニア派 エレアのゼノン(前494頃~前430頃) エレア派(イタリア派) エンペドクレス(前490頃~前430頃) イタリア派 アルケラオス(前5世紀) イオニア派 プロタゴラス(前490頃~前415頃) ソフィスト メリッソス(前484~?) エレア派(イタリア派) アテナイのアンティフォン(前480頃~前411) ソフィスト フィロラオス(前470頃~前385頃) ピュタゴラス派(イタリア派) レウキッポス(前5世紀後半) 原子論者 デモクリトス(前460頃~前370頃) 原子論者 アポロニアのディオゲネス(前460頃~?) アルキュタス(前430頃~前350頃) ピュタゴラス派(イタリア派) ◆古典期ギリシア哲学 【時期】前5世紀半ば~前4世紀後半(前322年、アリストテレス死去) 【場所】アテナイ、前4世紀の学校 ゴルギアス(前485頃~前380頃) ソフィスト ソクラテス(前469頃~前399) プロディコス(前465頃~前395頃) ソフィスト ヒッピアス(前460頃~前384) ソフィスト アンティステネス(前445頃~前365頃) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) メガラのエウクレイデス(前445頃~前365頃) 小ソクラテス派のメガラ派 パイドン(前5~前4世紀) 小ソクラテス派のエリス派 アリスティッポス(前4世紀) 小ソクラテス派のキュレネ派 クセノフォン(前430頃~前355頃) ソクラテスの弟子 イソクラテス(前436~前338) ソフィスト プラトン(前427~前347) アカデメイア派 シノペのディオゲネス(前413/403頃~前323) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) スペウシッポス(前410頃~前339) アカデメイア派 クセノクラテス(前396~前314) アカデメイア派 ヘラクレイデス(前390頃~前310頃) アリストテレス(前384~前322) 逍遙学派(ペリパトス派) テオフラストス(前371頃~前286頃) 逍遙学派(ペリパトス派) テーバイのクラテス(前360頃~前280頃)と妻ヒッパルキア(前350頃~前280頃) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) ◆ヘレニズム哲学 【時期】前4世紀末~前1世紀(前31年、プトレマイオス朝滅) 【場所】ヘレニズム世界 ピュロン(前341~前270) 古懐疑派 エピクロス(前341~前270) エピクロス派 キティオンのゼノン(前334頃~前262頃) 古ストア派(初期ストア派) クレアンティス(前304頃~前233頃) 古ストア派(初期ストア派) アルケシラオス(前315頃~前240頃) アカデメイア懐疑派(中期アカデメイア) クリュシッポス(前279頃~前206頃) 古ストア派(初期ストア派) カルネアデス(前214~前129) アカデメイア懐疑派(中期アカデメイア) パナイティオス(前185頃~前110頃) 中ストア派(中期ストア派) ポセイドニオス(前135頃~前51頃) 中ストア派(中期ストア派) ◆古代後期哲学 【時期】前1世紀~後6世紀前半(529年、ユスティニアヌス帝の異教徒学校閉鎖令) 【場所】ローマ帝国 フィロデモス(前110頃~前40) エピクロス派 キケロ(前106~前43) ルクレティウス(前95頃~前55頃) エピクロス派 セネカ(前1頃~65年) 新ストア派(後期ストア派) プルタルコス(46頃~127頃) 中期プラトン主義 エピクテトス(55頃~135頃) 新ストア派(後期ストア派) マルクス・アウレリウス(121~180) 新ストア派(後期ストア派) アプレイウス(124頃~170頃) 中期プラトン主義 セクストス・エンペイリコス(160頃~210頃) 懐疑主義 アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃) アリストテレス派 プロティノス(205頃~270) 新プラトン主義 ディオゲネス・ラエルティオス(2世紀後半) 哲学史家 プロクロス(412~485) 新プラトン主義 ダマスキオス(480頃~550頃) 新プラトン主義 シンプリキオス(490頃~560頃) 新プラトン主義
https://w.atwiki.jp/philosopher/pages/18.html
「ポストモダン」という言葉を最初に使いだしたのは誰か 絵画 様式からスタイルへ、スタイルからポストモダンへ 思想におけるポストモダン思想 リオタール 大きな物語の消滅 ダニエル・ベル 情報化社会 ポストモダン思想の背後に新しい哲学はあるか 差異の形而上学がそれではないのか 哲学でないのならポストモダンにおいて哲学と言われている物はなんなのか 「ポストモダン」という言葉を最初に使いだしたのは誰か 建築家。建築物は時代によって様式が異なる。20世紀前半に「モダニズム」という目的に即した機能的な建築様式が生まれた。20世紀なかばを過ぎたときに様式を否定する様式として過去の古い様式のパッチワークのような建築法が生まれた。 絵画 様式からスタイルへ、スタイルからポストモダンへ 時代や文化に応じた様式が存在していたが、19世紀になると写真の発明によって写実的に描くという画家の仕事がなくなる。そこで画家は自分たちのスタイルを前面にだし、それによって画家のオリジナリティを主張するようになる。しかし、それも20世紀になると個人がそれぞれのスタイルを作るということの不可能性に気付き、オリジナリティの価値が否定され、ポストモダン状況へと遷移する。 思想におけるポストモダン思想 思想においても、ポストモダンという言葉が使われ始めた。その口火を切ったのが リオタールの『ポストモダンの条件』(1979)である。 リオタール 大きな物語の消滅 「大きな物語」が終焉した。例えば人間は理性があり、教育などにやり合理的な考え方ができるようになるという「啓蒙」の物語である。知識はもはやそのような啓蒙のためにあるのではなく、情報として交換するものとなる。 ダニエル・ベル 情報化社会 リオタール以前に、ポストモダンが何を意味するのかを捉えた議論として1960年代にアメリカや日本でとりざたされた「情報化社会」の到来についての議論がある。 ダニエル・ベルは『イデオロギーの終焉』(1960)において東西冷戦というイデオロギーの対立はすでに終わっており、知識産業中心の新しい社会が生まれつつあると指摘した。リオタールの議論はベルの議論の焼き直しに過ぎない。 情報化社会という捉え方には情報化によって人類の未来はますます豊かになるという楽観的なものだったが、1970年代になると環境破壊等の問題により悲観的な見方がされるようになった。 ポストモダン思想の背後に新しい哲学はあるか ない。デリダの「脱構築」などの「ポスト構造主義」それであるという考えは間違っている。「ポスト構造主義」という名前は構造主義の思考を理解できなかったアメリカ知識人が構造主義批判をしたデリダの思想に与えられた名前である。 差異の形而上学がそれではないのか スローガンに過ぎない。差異という概念は確かに20世紀になって重大な意味を持ち始めた。ベルクソン、構造主義、ハイデガーの「存在論的差異」、デリダの「差延」etc.しかし、思想家によって差異の概念は明らかに異なっており、かみあわせることすら困難にみえる。このスローガンはポストモダンを近代の概念に従って一つの時代と捉えてその時代の背後にも新しい哲学があるはずという希望を書いているに過ぎない。 哲学でないのならポストモダンにおいて哲学と言われている物はなんなのか 文化批評である。さまざまな哲学書を文学作品のようにして読み、そのパッチワークで面白い話を仕立てあげてくれる業界のことである。 例えばデリダの脱構築はアメリカのイウェール学派によって文芸批評の一手法として捉えられた。